2018年11月28日
人吉・球磨の歴史 山江~高寺院~
山江~高寺院~
高野山真言宗。
高寺院は、球磨郡で一番古い寺院です。375段の石段を登ると頂上に奥の院があります。
高寺院・毘沙門天立像毘沙門堂は、奥の院への石段の登り口にあり、5体の毘沙門天立像が安置されています。
その内の2体は、国の重要文化財になっています。
球磨地方は、かつて平家一門の荘園がありました。平家滅亡後、平重盛の家人だった平貞能が、追善菩提のため重盛の念持仏の金造毘沙門天を胎内に納めた尊像を刻み、堂宇を建立したのが高寺院の始まりとされています。また、一説には、永享5年(1433)に快親という僧が開山して、本尊に毘沙門天を安置したとも言われています。江戸時代には、かなりの諸堂が軒を連ねていました。庫裏を兼ねた本堂は、寄棟造の葦葺きで、山村の農家のような感じの建物。外観からはお寺とは思えないが、日本人のふるさとといった雰囲気があります。
本堂の裏手にある入母屋造の収蔵庫に、本尊などの諸仏が安置されています。内部に並ぶ三体の毘沙門天像は、まさに壮観であり威風堂々と立っています。
・以前、萱葺きだった屋根は維持困難のため残念ながら金属製の屋根になりました。
・開帳は通年のもの、旧暦2月15日だけの物、春の彼岸の内の一日だけの物等あり、年毎に若干の変更がありますのでお尋ねくださいとのことです。

毘沙門天立像(国重要文化財)
指定年月日 大正元年9月3日

毘沙門天堂
国登録有形文化財
指定年月日
平成10年10月9日
かつて毘沙門天立像が安置されていたお堂。
現在も375段の石段を昇ったさきに、現存しています
ここには、安土桃山時代に作られたとされる木造塔があり、8箇の部材の組み合わせでできています。 屋根は重層で、下部軸部を方形、上部軸部を円形に造られ、素材は、杉材と青銅(八葉連華・風鐸・宝鈴)及び鉄(宝鈴)であり、木造部分は黒・朱・紺の顔料で彩色されています。
造塔の由来が明確で県内唯一の安土遺跡桃山期の木造塔であり、また、人吉・球磨地方の仏教文化の一端を示す物として貴重なものです。







奥の院、毘沙門天へ登り

現在の毘沙門天像収蔵庫



人吉・球磨の歴史に触れる時、相良七百年の歴史の重みを感じます。
私は八代市在住です。もともとは坂本生まれなのですが、一山越せば球磨郡相良村という土地柄で、祖母も相良村出身で・・・この話はさておいて、坂本と人吉・球磨を結ぶ相良道の存在は球磨川が開削され船運が盛んになる江戸時代以前は山越えが一般的であったことを物語っている。人々の暮らしがそこに垣間見える。相良~深水、鮎帰間には林道が通り、分断されてはいるがそのわきに相良道が通っている。
高野山真言宗。
高寺院は、球磨郡で一番古い寺院です。375段の石段を登ると頂上に奥の院があります。
高寺院・毘沙門天立像毘沙門堂は、奥の院への石段の登り口にあり、5体の毘沙門天立像が安置されています。
その内の2体は、国の重要文化財になっています。
球磨地方は、かつて平家一門の荘園がありました。平家滅亡後、平重盛の家人だった平貞能が、追善菩提のため重盛の念持仏の金造毘沙門天を胎内に納めた尊像を刻み、堂宇を建立したのが高寺院の始まりとされています。また、一説には、永享5年(1433)に快親という僧が開山して、本尊に毘沙門天を安置したとも言われています。江戸時代には、かなりの諸堂が軒を連ねていました。庫裏を兼ねた本堂は、寄棟造の葦葺きで、山村の農家のような感じの建物。外観からはお寺とは思えないが、日本人のふるさとといった雰囲気があります。
本堂の裏手にある入母屋造の収蔵庫に、本尊などの諸仏が安置されています。内部に並ぶ三体の毘沙門天像は、まさに壮観であり威風堂々と立っています。
・以前、萱葺きだった屋根は維持困難のため残念ながら金属製の屋根になりました。
・開帳は通年のもの、旧暦2月15日だけの物、春の彼岸の内の一日だけの物等あり、年毎に若干の変更がありますのでお尋ねくださいとのことです。

毘沙門天立像(国重要文化財)
指定年月日 大正元年9月3日

毘沙門天堂
国登録有形文化財
指定年月日
平成10年10月9日
かつて毘沙門天立像が安置されていたお堂。
現在も375段の石段を昇ったさきに、現存しています
ここには、安土桃山時代に作られたとされる木造塔があり、8箇の部材の組み合わせでできています。 屋根は重層で、下部軸部を方形、上部軸部を円形に造られ、素材は、杉材と青銅(八葉連華・風鐸・宝鈴)及び鉄(宝鈴)であり、木造部分は黒・朱・紺の顔料で彩色されています。
造塔の由来が明確で県内唯一の安土遺跡桃山期の木造塔であり、また、人吉・球磨地方の仏教文化の一端を示す物として貴重なものです。







奥の院、毘沙門天へ登り

現在の毘沙門天像収蔵庫



人吉・球磨の歴史に触れる時、相良七百年の歴史の重みを感じます。
私は八代市在住です。もともとは坂本生まれなのですが、一山越せば球磨郡相良村という土地柄で、祖母も相良村出身で・・・この話はさておいて、坂本と人吉・球磨を結ぶ相良道の存在は球磨川が開削され船運が盛んになる江戸時代以前は山越えが一般的であったことを物語っている。人々の暮らしがそこに垣間見える。相良~深水、鮎帰間には林道が通り、分断されてはいるがそのわきに相良道が通っている。
2018年11月26日
人吉市 山田大王神社
国重要文化財:指定年月日 平成2年(1990年)9月11日
山田大王神社(やまだだいおうじんじゃ)は永吉庄山田村地頭であった平河次郎藤高の霊を祀る神社です。
本殿は天文15年(1546年)、拝殿及び神供所は宝暦11年(1761年)、本殿覆屋は安永10年(1781年)、鳥居は延享2年(1745年)の建立です。
特に本殿は南九州地方でも中世に遡る数少ない建築で、保存状態も良く、貴重な存在である。
また、拝殿及び神供所、本殿覆屋、鳥居は同時代の建立で、社檀の景観も整っており、価値が高い。
平成2年9月11日付けで山江村の指定文化財環境保全地区に指定されている。
平成6年から3年かけて全面解体修理。 神社の裏山一帯は14世紀に存在した山田城跡である。
平河氏は、桓武天皇皇子、良峯安世の末孫と称し、相良長頼が人吉庄の地頭に補任される18年前(1187年)に源頼朝より領土安堵の下文を貰い、錦町木上(荒田)の岩城を本拠として、球磨郷、永吉庄を支配した中世の豪族である。
平河氏は球磨郷11000丁のうち永吉庄(須恵、深田、木上、川、山田、万江) 300丁を支配していたが、相良長頼がその年末、平河氏が陰謀を起こしたということで、これを木上の血敷原において殲滅(せんめつ、すっかり滅ぼすこと。皆殺しにすること。)したという。
そして後年、平河一族の霊を弔うため、かつて領有していた球磨川以北の土地に霊社を建てた。
所有者 宗教法人山田大王神社
所在地 山江村大字山田甲1514









石塔『一結諸衆』
山田大王神社の本殿の真後ろに三尺余の古い自然石が建っている。
石塔の上部に梵字で大きく(大日如来)という字が彫られ、中央は空で下部に小さく正平廿戌申一結諸衆と刻まれている。
正平廿三年は、ちょうど南北朝時代(1332~1392)のほぼ中央に当たり、平穏な時であった。
当時、相良氏は、人吉と多良木に政権が分立しており、人吉相良は北朝に組し、多良木相良は南朝に味方するという、一族が南朝・北朝の敵味方に別れ、人吉球磨の各地で争った時代である。
八代市には南北朝時代の遺構が多く残されている。なぜならば南朝方の終焉の地であるからに他ならない。
懐良親王は八代で死去したわけではないがゆかりの地として明治時代、久留米千光寺、大日寺などと競っていた主導権争いに終止符が打たれ、明治11年4月25日、征西将軍懐良親王御墓として時の明治政府、宮内省に認定された。また悟真寺の御霊殿には親王像、親王画像、親王直筆からなる御両親の御礼拝霊牌などが祭られている。
相良家は当初、南朝方についていたが形勢不利と見るや中立の立場を取り始めたと思っていたが、相良家内部では北朝方と南朝方を支持するものに分かれていたことを初めて知りました。
歴史は面白い!!


山田大王神社(やまだだいおうじんじゃ)は永吉庄山田村地頭であった平河次郎藤高の霊を祀る神社です。
本殿は天文15年(1546年)、拝殿及び神供所は宝暦11年(1761年)、本殿覆屋は安永10年(1781年)、鳥居は延享2年(1745年)の建立です。
特に本殿は南九州地方でも中世に遡る数少ない建築で、保存状態も良く、貴重な存在である。
また、拝殿及び神供所、本殿覆屋、鳥居は同時代の建立で、社檀の景観も整っており、価値が高い。
平成2年9月11日付けで山江村の指定文化財環境保全地区に指定されている。
平成6年から3年かけて全面解体修理。 神社の裏山一帯は14世紀に存在した山田城跡である。
平河氏は、桓武天皇皇子、良峯安世の末孫と称し、相良長頼が人吉庄の地頭に補任される18年前(1187年)に源頼朝より領土安堵の下文を貰い、錦町木上(荒田)の岩城を本拠として、球磨郷、永吉庄を支配した中世の豪族である。
平河氏は球磨郷11000丁のうち永吉庄(須恵、深田、木上、川、山田、万江) 300丁を支配していたが、相良長頼がその年末、平河氏が陰謀を起こしたということで、これを木上の血敷原において殲滅(せんめつ、すっかり滅ぼすこと。皆殺しにすること。)したという。
そして後年、平河一族の霊を弔うため、かつて領有していた球磨川以北の土地に霊社を建てた。
所有者 宗教法人山田大王神社
所在地 山江村大字山田甲1514









石塔『一結諸衆』
山田大王神社の本殿の真後ろに三尺余の古い自然石が建っている。
石塔の上部に梵字で大きく(大日如来)という字が彫られ、中央は空で下部に小さく正平廿戌申一結諸衆と刻まれている。
正平廿三年は、ちょうど南北朝時代(1332~1392)のほぼ中央に当たり、平穏な時であった。
当時、相良氏は、人吉と多良木に政権が分立しており、人吉相良は北朝に組し、多良木相良は南朝に味方するという、一族が南朝・北朝の敵味方に別れ、人吉球磨の各地で争った時代である。
八代市には南北朝時代の遺構が多く残されている。なぜならば南朝方の終焉の地であるからに他ならない。
懐良親王は八代で死去したわけではないがゆかりの地として明治時代、久留米千光寺、大日寺などと競っていた主導権争いに終止符が打たれ、明治11年4月25日、征西将軍懐良親王御墓として時の明治政府、宮内省に認定された。また悟真寺の御霊殿には親王像、親王画像、親王直筆からなる御両親の御礼拝霊牌などが祭られている。
相良家は当初、南朝方についていたが形勢不利と見るや中立の立場を取り始めたと思っていたが、相良家内部では北朝方と南朝方を支持するものに分かれていたことを初めて知りました。
歴史は面白い!!


2018年11月25日
芦北町 屋敷野地区 白木神社~百済とのえにし~
2018 11.25 白木神社
今年もあとひと月ちょっとですね!
人吉、山江の民俗資料館で「やまえのほとけ展」を見た帰り、周辺の高寺院、山田大王神社などをお参りした後、芦北町大野周辺の白木神社に参拝に行きました。
芦北町は百済が存在していた時代より交流があったことが地名などで想定できる。海岸伝いから山間部まで地名由来にまつわる伝承は数多い。白木神社もその一つであり、三韓時代の新羅を偲ぶことが出来る。
今回は由緒、創建年代などは確認できなかったが、芦北町においては現在、以前の町史を廃して新町史を作成中とのことで今後に期待をしたいと思う。
〒869-6308 熊本県葦北郡芦北町白木599
https://loco.yahoo.co.jp/place/g-FA3AugEz_As//
県道27号線を人吉方面へ向かう途中、製材所があります。その先150mほど先を左の方に行けば5件くらいの集落有、その先に大きな集落有、公民館と観音堂があります。駐車は公民館でOKだと思います。進行方向を100m位バックした右手の山合にご鎮座されています。
白木神社



釜の神紋・・農業の神を祀っているのだろうか?

明治時代の額









神社の上段には自然石を祀った山の神様が祀られていました。
今年もあとひと月ちょっとですね!
人吉、山江の民俗資料館で「やまえのほとけ展」を見た帰り、周辺の高寺院、山田大王神社などをお参りした後、芦北町大野周辺の白木神社に参拝に行きました。
芦北町は百済が存在していた時代より交流があったことが地名などで想定できる。海岸伝いから山間部まで地名由来にまつわる伝承は数多い。白木神社もその一つであり、三韓時代の新羅を偲ぶことが出来る。
今回は由緒、創建年代などは確認できなかったが、芦北町においては現在、以前の町史を廃して新町史を作成中とのことで今後に期待をしたいと思う。
〒869-6308 熊本県葦北郡芦北町白木599
https://loco.yahoo.co.jp/place/g-FA3AugEz_As//
県道27号線を人吉方面へ向かう途中、製材所があります。その先150mほど先を左の方に行けば5件くらいの集落有、その先に大きな集落有、公民館と観音堂があります。駐車は公民館でOKだと思います。進行方向を100m位バックした右手の山合にご鎮座されています。
白木神社



釜の神紋・・農業の神を祀っているのだろうか?

明治時代の額









神社の上段には自然石を祀った山の神様が祀られていました。