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Posted by おてもやん at

2020年04月18日

山都町散策と布田保之助その①

令和2年3月15日
今まで何故か通り過ごすことが多かった山都町の街中散策と布田保之助を改めて知る。
通潤橋を訪ねたことは今までにも何度かあった。しかし速足で駆け抜けていたような気がする。
2回に分けても足りないが、山都町矢部の歴史について少しだけ旅に出る。
218号線をひたすらまっすぐ・・矢部町の道の駅「通潤橋」を目指す。
新型コロナが騒がれ始めたころだったが、人は比較的多かった。
道の駅の資料室の中を見学。ガイドの方が丁寧に応対して下さり嬉しかった。おもてなしですね~。
通潤橋、布田神社、五郎が滝をゆっくり見て回る。
通潤橋は修理も終わり、4月半ば位から放水できるとのことだったが、数日前紙面で中止が決定されたと書かれていましたね。
でも五郎が滝は下から見るとほんとみごとですね~。



通潤橋の名前の由来

建設当初は名前が違っていたらしい!!

「通潤橋」の命名は
中国の古典「易経・程氏伝」に由来する。
その名のとおり人と人をつなぎ、心も潤して水を運ぶ。
今なお現役、地域の生命線である。
石柱の通潤橋の文字は
肥後勤王党の総帥・宮部鼎蔵の書。






山都町矢部
https://www.mlit.go.jp/tochimizushigen/mizsei/mizusato/shichoson/kyushu/yabe.htm

布田保之助
https://www.kubota.co.jp/kubotatanbo/control/tsujun/waterway.html


布田保之助を祀る布田神社


http://www.komainu.org/kumamoto/kamimasuki_yamato/futa/futa.html

 昭和11年11月創立、ご祭神は、第16代矢部手永惣庄屋布田保之助惟暉命享和元年(1801)11月26日生、天保4年(1833)2月矢部手永の惣庄屋となり、嘉永7年(1854)閏7月29日通潤橋の通水管(吹上樋)1本のみ通水に成功。同年8月晦日通潤橋の渡り初め実施。文久元年(1861)に隠居、明治6年(1873)4月3日没。
 案外知られていないが、実は布田神社はここ以外にもう1箇所町内にある。島木の峰という集落の高台に祭られている。峰の布田神社のすぐ下には、通潤橋架橋2年前に完成した中島福良井手が通っている。これも布田翁が手掛けられた井手。
 2年前と言っても通潤橋架橋に1年8ヶ月を要しているので、中島福良井手が完成してすぐに通潤橋の工事に着手している。この間に、吹上樋の実験もしている。そればかりではない。布田翁は、他の井手や道路などの多くの工事も同時並行して行っている。まさしく神業。境内地内には、通潤橋架橋に関するいろんな記念碑が建立されているが、その多くが平成28年4月の熊本地震により倒壊した。


五郎が滝

https://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/kiji0032583/index.html


布田保之助を祀る布田神社
工事中でした。社務所を改築中でした。(3月15日)














五郎が滝を下から見る。



























美味しい食べ物、空気、自然、風景に出会えます。
松橋~砥用~矢部    石橋や綺麗な緑を見ながらあっという間に矢部。ぜひ行ってみませんか?




  


Posted by ヒヨドリジョウゴ at 13:25Comments(0)石橋その他の史跡

2019年10月14日

菊池武光公

菊池武光公は菊池氏を確立した第15代惣領である。
公は南北朝時代を中心に活躍をした武将で、菊池氏は室町時代の南北朝時代と言われる時代の波に翻弄された一族でもある。

菊池氏は肥後における南朝方の中心として勢力を誇り、活躍をした。
その遺構は菊池神社を中心とした市内周辺に数多く残されている。
市街地マップなどは市民広場内の菊池市観光協会へどうぞ!0968-25-0513

https://ja.wikipedia.org/wiki/菊池武光



武光公の墓




菊池武光公の墓
















正観寺庫裏
















樹齢600年を超える正観寺の大楠









私事で恐縮ですが、きくちしと家紋が同じなんです!!
それは別にしても菊池市は見所も多く、温泉有で良いところですよね。
歴史の好きな方には外せない場所かも!!
正観寺の大楠は見事です。まっすぐスッと伸びていてとても美しいですね!

庫裏、武光公が眠る墓に入るとき、「猛犬注意」の表示に一瞬どうしようかなと思いましたが、何事もありませんでした。(笑い)
出来れば「猛犬注意」の表示はなくて、「お静かにお参りください」の方が良かったかも。




  


Posted by ヒヨドリジョウゴ at 07:27Comments(0)その他の史跡

2019年07月07日

宇城市波多神社

波多神社

所在地 : 〒869-3205
宇城市三角町波多2427-1

お問い合わせ
宇城市 教育部 文化課 文化財世界遺産係
電話番号:0964-32-1111


国道266号線を波多で山手に入って右の方に行き線路を渡り、まっすぐ進むとすぐに見えてくる。
(少しわかりにくいが聞けば教えてもらえる)

創建年代は不詳。
菅原道真公を祭神とする現在の建物は、江戸時代末期(明治に代わる8年前)の万延元年(1860)9月に再建されたものである。 
波多神社の拝殿及び神殿の前面、側面、背面の彫刻は、技術の高さ、量共に見事で ある。
建立、彫刻は、波多出身の宮大工、神原左八郎で、阿蘇神社の楼門、八代宮の拝殿 ・神殿、菊池神社の建立等、県下各地に多くの作品がある。
毎年10月には五穀豊穣・商売繁盛・地域繁栄などを祈願する波多神社例大祭が催されます。







見事な彫刻!!








ちょっと変わった狛犬、おそらく再建前の狛犬さんだろう!!




やはり菅原道真が祀られていた。






























近くにはフラワーアイランド戸馳島、戸馳神社、戸馳稲荷、海のピラミッド、三角港に行くと法の館、世界遺産に出会える。























  


Posted by ヒヨドリジョウゴ at 17:09Comments(0)社寺仏閣

2019年01月12日

宇土城跡

宇土城跡
宇土城跡には「中世城跡」と「近世城跡」と呼ばれるものがあります。
宇土城も多くの方によってブログその他に取り上げられていますので、改めてこの場で説明する必要もありませんが、
一点だけ言わせてもらえれば、どちらの城跡も八代市と大いに関係があるということです。
「中世城跡」の名和氏は八代古麓城主として、また「近世城跡」の小西氏は八代城二代目の麦島城を築城したことで知られています。
両氏とも1300年~1600年にかけて主に熊本県南部を中心に活躍した武将でした。

詳しくはこちらをご覧ください

http://www.takakurashoten.sakura.ne.jp/castle/kyushu/uto/uto.htm

https://blog.goo.ne.jp/atty-xxx/e/6ba8d35e2d7934a2247b296bc49579f2

http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/uto.htm

中世宇土城跡







堀切跡



近世城跡






















城跡は近世城跡に石垣が残るのみである。
小西行長が築城した近世城郭は行長の死後、徳川の一国一城制度のはざまで取り壊され、わずか20年の短命な城であった。



  


Posted by ヒヨドリジョウゴ at 21:43Comments(0)城跡

2019年01月11日

熊本市健軍町 八咫烏神社

熊本市 八咫烏神社
600年近い歴史を持つ神社。
今年2回目の神社参拝。









熊本地震で鳥居は折れました。



















前から気になっていた神社でしたので、参拝出来て大感激です。
なぜそんなに感激するほどなのか・・。理由は多々ありますが・・。
まず、記録に残されている日本における天皇制の歴史と大いに関係があります。
皆さんがよく知る神武天皇の東征の話に出てくる八咫烏は三本足の鳥です。
道案内をした鳥という話は有名ですので詳細は省きますね。
全国にも数か所しかない八咫烏神社の一つが、ここ熊本市健軍町にあるんです。
素晴らしいことですね。
何故、熊本に・・?
それはその昔の昔、南北朝時代に光永家の御先祖が後醍醐天皇のお召しに応じて吉野山に分け入られた際に道に迷い困っているところを道案内してくれたそうで、その鳥の後をついていくうちに無事行宮にたどり着いたということである。
詳しい話は聞いていませんので、氏子の光永さんにお会いしてもっと詳しいお話をお聞きしたいと思います。

とても気になるこの御紋








三つ葉葵・・徳川家と何か関係があるのだろうか?
この疑問が早く解決できることを祈りましょう。
  


Posted by ヒヨドリジョウゴ at 22:13Comments(0)社寺仏閣

2018年11月28日

人吉・球磨の歴史 山江~高寺院~

山江~高寺院~

高野山真言宗。
高寺院は、球磨郡で一番古い寺院です。375段の石段を登ると頂上に奥の院があります。
高寺院・毘沙門天立像毘沙門堂は、奥の院への石段の登り口にあり、5体の毘沙門天立像が安置されています。
その内の2体は、国の重要文化財になっています。

球磨地方は、かつて平家一門の荘園がありました。平家滅亡後、平重盛の家人だった平貞能が、追善菩提のため重盛の念持仏の金造毘沙門天を胎内に納めた尊像を刻み、堂宇を建立したのが高寺院の始まりとされています。また、一説には、永享5年(1433)に快親という僧が開山して、本尊に毘沙門天を安置したとも言われています。江戸時代には、かなりの諸堂が軒を連ねていました。庫裏を兼ねた本堂は、寄棟造の葦葺きで、山村の農家のような感じの建物。外観からはお寺とは思えないが、日本人のふるさとといった雰囲気があります。
本堂の裏手にある入母屋造の収蔵庫に、本尊などの諸仏が安置されています。内部に並ぶ三体の毘沙門天像は、まさに壮観であり威風堂々と立っています。
・以前、萱葺きだった屋根は維持困難のため残念ながら金属製の屋根になりました。

・開帳は通年のもの、旧暦2月15日だけの物、春の彼岸の内の一日だけの物等あり、年毎に若干の変更がありますのでお尋ねくださいとのことです。


毘沙門天立像(国重要文化財)
指定年月日 大正元年9月3日




毘沙門天堂
国登録有形文化財
指定年月日
平成10年10月9日

かつて毘沙門天立像が安置されていたお堂。
現在も375段の石段を昇ったさきに、現存しています
ここには、安土桃山時代に作られたとされる木造塔があり、8箇の部材の組み合わせでできています。 屋根は重層で、下部軸部を方形、上部軸部を円形に造られ、素材は、杉材と青銅(八葉連華・風鐸・宝鈴)及び鉄(宝鈴)であり、木造部分は黒・朱・紺の顔料で彩色されています。
造塔の由来が明確で県内唯一の安土遺跡桃山期の木造塔であり、また、人吉・球磨地方の仏教文化の一端を示す物として貴重なものです。






















奥の院、毘沙門天へ登り





現在の毘沙門天像収蔵庫










人吉・球磨の歴史に触れる時、相良七百年の歴史の重みを感じます。
私は八代市在住です。もともとは坂本生まれなのですが、一山越せば球磨郡相良村という土地柄で、祖母も相良村出身で・・・この話はさておいて、坂本と人吉・球磨を結ぶ相良道の存在は球磨川が開削され船運が盛んになる江戸時代以前は山越えが一般的であったことを物語っている。人々の暮らしがそこに垣間見える。相良~深水、鮎帰間には林道が通り、分断されてはいるがそのわきに相良道が通っている。



  


Posted by ヒヨドリジョウゴ at 22:03Comments(0)社寺仏閣

2018年11月26日

人吉市 山田大王神社

国重要文化財:指定年月日 平成2年(1990年)9月11日

  山田大王神社(やまだだいおうじんじゃ)は永吉庄山田村地頭であった平河次郎藤高の霊を祀る神社です。
本殿は天文15年(1546年)、拝殿及び神供所は宝暦11年(1761年)、本殿覆屋は安永10年(1781年)、鳥居は延享2年(1745年)の建立です。
特に本殿は南九州地方でも中世に遡る数少ない建築で、保存状態も良く、貴重な存在である。
また、拝殿及び神供所、本殿覆屋、鳥居は同時代の建立で、社檀の景観も整っており、価値が高い。
平成2年9月11日付けで山江村の指定文化財環境保全地区に指定されている。
平成6年から3年かけて全面解体修理。 神社の裏山一帯は14世紀に存在した山田城跡である。


平河氏は、桓武天皇皇子、良峯安世の末孫と称し、相良長頼が人吉庄の地頭に補任される18年前(1187年)に源頼朝より領土安堵の下文を貰い、錦町木上(荒田)の岩城を本拠として、球磨郷、永吉庄を支配した中世の豪族である。

平河氏は球磨郷11000丁のうち永吉庄(須恵、深田、木上、川、山田、万江) 300丁を支配していたが、相良長頼がその年末、平河氏が陰謀を起こしたということで、これを木上の血敷原において殲滅(せんめつ、すっかり滅ぼすこと。皆殺しにすること。)したという。
そして後年、平河一族の霊を弔うため、かつて領有していた球磨川以北の土地に霊社を建てた。

所有者 宗教法人山田大王神社
所在地 山江村大字山田甲1514




































石塔『一結諸衆』
山田大王神社の本殿の真後ろに三尺余の古い自然石が建っている。
石塔の上部に梵字で大きく(大日如来)という字が彫られ、中央は空で下部に小さく正平廿戌申一結諸衆と刻まれている。
正平廿三年は、ちょうど南北朝時代(1332~1392)のほぼ中央に当たり、平穏な時であった。

当時、相良氏は、人吉と多良木に政権が分立しており、人吉相良は北朝に組し、多良木相良は南朝に味方するという、一族が南朝・北朝の敵味方に別れ、人吉球磨の各地で争った時代である。


八代市には南北朝時代の遺構が多く残されている。なぜならば南朝方の終焉の地であるからに他ならない。
懐良親王は八代で死去したわけではないがゆかりの地として明治時代、久留米千光寺、大日寺などと競っていた主導権争いに終止符が打たれ、明治11年4月25日、征西将軍懐良親王御墓として時の明治政府、宮内省に認定された。また悟真寺の御霊殿には親王像、親王画像、親王直筆からなる御両親の御礼拝霊牌などが祭られている。

相良家は当初、南朝方についていたが形勢不利と見るや中立の立場を取り始めたと思っていたが、相良家内部では北朝方と南朝方を支持するものに分かれていたことを初めて知りました。

歴史は面白い!!




















  


Posted by ヒヨドリジョウゴ at 22:05Comments(0)社寺仏閣

2018年11月25日

芦北町 屋敷野地区 白木神社~百済とのえにし~

2018 11.25 白木神社

今年もあとひと月ちょっとですね!
人吉、山江の民俗資料館で「やまえのほとけ展」を見た帰り、周辺の高寺院、山田大王神社などをお参りした後、芦北町大野周辺の白木神社に参拝に行きました。
芦北町は百済が存在していた時代より交流があったことが地名などで想定できる。海岸伝いから山間部まで地名由来にまつわる伝承は数多い。白木神社もその一つであり、三韓時代の新羅を偲ぶことが出来る。
今回は由緒、創建年代などは確認できなかったが、芦北町においては現在、以前の町史を廃して新町史を作成中とのことで今後に期待をしたいと思う。
〒869-6308 熊本県葦北郡芦北町白木599
https://loco.yahoo.co.jp/place/g-FA3AugEz_As//
県道27号線を人吉方面へ向かう途中、製材所があります。その先150mほど先を左の方に行けば5件くらいの集落有、その先に大きな集落有、公民館と観音堂があります。駐車は公民館でOKだと思います。進行方向を100m位バックした右手の山合にご鎮座されています。

白木神社










釜の神紋・・農業の神を祀っているのだろうか?




明治時代の額




























神社の上段には自然石を祀った山の神様が祀られていました。

  


Posted by ヒヨドリジョウゴ at 21:01Comments(0)社寺仏閣

2018年04月30日

熊本地震の傷跡 大津町 窪田阿蘇神社

昨日(4月29日)、大津町の窪田阿蘇神社を始めて訪ねました。
いつも通りながら行きたいと思いつつ、何故か今日まで行くことが出来なかった・・私の中では変な因縁?のある神社です。
窪田神社は大津町の中心部を走る国道57号線と並行して阿蘇方面に伸びる道沿いの陣内地区にあります。
陣内小学校向かって右側です。200m位離れていますでしょうか。

窪田阿蘇神社も2年前の地震で本殿、拝殿が損壊し、鳥居も倒れ、石造物も大きなダメージを受けました。
しかし、現在では復興途上ながらも氏子さん達の力で本、拝殿は修理がされている。
また、鳥居は竹鳥居になっているが、後日の再建を期待したいと思います。
地震前の当神社を紹介しているブログがありますので比べていただければよくわかると思います。

窪田神社は第十一代土御門天皇の代に陣内村鶴に初めて勧請され、1469年に現在地に移されました。

由緒書き







御祭神

阿蘇十二神将である





文化6年・灯籠








鳥居

現在の鳥居



壊れた鳥居と今の鳥居




本殿







本殿の豪華な彫刻













拝殿

拝殿は少し損壊したようで修理が施されています。







狛犬

とてもユニークなお顔ですね!












境内社

天満宮







塞神社





お馬堂







手水鉢



陣内地区の氏神様である神社の早い復興を祈ります。  


Posted by ヒヨドリジョウゴ at 17:36Comments(0)社寺仏閣

2018年01月08日

幣立神社 最古の神社の姿

幣立神宮

一月七日(日)、草部吉見神社に続き幣立神宮を訪ねました。自分でもびっくりなんですがこの場所を訪れたのは初めてでした。
天孫降臨伝説の高天原とともに神秘的な場所であると思います。

「幣立神宮」は、九州の「へそ」と言われ、九州のほぼ真中に位置する旧蘇陽町にあります。
幣立神宮は、元伊勢宮として、祖神を天之御中主とする日の神をおまつりしています。
また人類を示す「五色の面」が納められています。

【祭神】神漏岐命(かむろぎのみこと)
      神漏美命(かむろみのみこと)
      大宇宙大和神(おおとのちおおかみ)
      天御中主大神(あまのみなかぬしのおおかみ)
      天照大神(あまてらすおおみかみ)

幣立神宮は通称「高天原・日の宮」と呼びます。
「日の宮」とは天照大御神が住む宮殿で、天照大神の子孫である天皇の住む御殿のことを言います。

一万五千年前のヒノキが御神木として現存するなどとても神秘的な空間です。

【場所】国道218号線をひたすら山都町方面にむかうと道の駅の左手先に見えてきますよ。

御本殿







裏参道




御神木のひのき




草部吉見神社から幣立神宮に向かう途中の展望台から見た九州山地




今日は参拝の方が多くてゆっくり落ち着いて拝観できる状況ではありませんでした。
詳しい報告は次回にさせていただきますね。  


Posted by ヒヨドリジョウゴ at 08:45Comments(0)社寺仏閣